インターネット利用者の急激な増大にともない、ネットワークを利用した情報通信にさまざまな「混乱」が生じ、その対策として「情報倫理教育」が重要な課題として認識されるようになりつつある。メール・ニュース・WWWなどを利用してエンドユーザである個人が簡単に情報発信できるようになったネットワーク時代の「情報倫理教育」は、これまで主として議論されてきたシステムの設計者・開発者・管理者・運用者など、プロフェッショナルに対する倫理綱領とはまったく異なる観点から検討されるべき側面が多い。しかし、何をもって「情報倫理教育」とするか、それをどのように実践していくかについては未解決の課題が山積している。
エンドユーザによる情報発信、知的財産権、個人情報の保護、利用規定、情報倫理、情報教育
Information Ethics: Preaching the unpreachable.
With the advent of WWW, an explosive expansion of the Internet brought about an unprecedented 'confusion' in network communication, and people are becoming more and more aware that some educational measure is in need to cope with an era in which any individual can distribute pieces of 'information' at a minimal cost throughout the world. However, it is not clear what the content of such Information Ethics Education should be, or how and at what stage such instructions should be conducted.
情報倫理教育はいかにして可能となるか
多くの大学において、21世紀に向けての「情報化」、とりわけ学生用のネットワーク・アクセス環境の整備・拡充が緊急の課題となっている。1990年代に入ってからのマスコミにおける「マルチメディア」や「インターネット」のブームとその後のインターネット利用者の爆発的増大、就職活動におけるWebや電子メールの利用の拡大などが契機となって、いかに多くの学生にネットワークを利用させているかが大学の情報化の一つの指標とされかねない情勢がある。一方、こうした利用者の急激な増大にともない、ネットワークを利用した情報通信にさまざまな「混乱」が生じ[1-5]、あるいはこれまでに潜在していた「混乱」が露呈することになり[6,11]、その対策として「情報倫理教育」が重要な課題として認識されるようになりつつある。[1,3,5]
インターネットは、その「自由」な利用が契機となって発展してきたと広く認識されている。インターネットの急激な進展にも見られるように、その内容の如何を問わず、情報の生成を妨げることは何者にもできず、情報の流通は本来は何者によっても妨げられてはならない。情報の生成と流通の自由を確保することは、研究教育機関としての大学に課せられた責務であるといっても過言ではない。しかしながら、ネットワーク社会における情報の生成と流通を可能なかぎり自由なものにしようと希求することと、法律や公正な社会的慣行に無知であること、あるいはそれらを無視することとは無関係である。 こうした認識に基づいて、早稲田大学メディアネットワークセンター(旧情報科学研究教育センター)では、学内の各種ネットワークや計算機資源の利用に関わる規約類の整備に努めて、学生に対する教育と教職員に対する啓蒙においては、ネットワーク利用の利便性の理解やハード・ソフトの操作に対する習熟よりも、むしろネットワークの適切な利用を強調するように心がけている。[3,7]
メール・ニュース・WWWなどを利用してエンドユーザである個人が簡単に情報発信できるようになったネットワーク時代の「情報倫理教育」は、これまで主として議論されてきたシステムの設計者・開発者・管理者・運用者など、プロフェッショナルに対する倫理綱領とはまったく異なる観点から検討されるべき側面が多い。一般のエンドユーザは、自分が目にしている端末の画面とキーボードを除く情報通信のすべての側面について無知であり、内部のコード体系・通信規約・デーモンなど各種ソフトの動作原理などを理解しようとしていない。また、自らの情報発信に関わって、民事的・刑事的な責任が発生すると認識していることもまれである。こうした時代にふさわしい、あらたな「情報倫理教育」が模索されているのが現在である。
早稲田大学では1997年度から学部新入生全員に対して入学時点でネットワーク利用のためのIDとパスワードを発行することになり、(学部独自で全学生に対して入門教育を行っている理工学部と人間科学部をのぞく)全学部の学生を対象として、ネットワーク利用に関するセミナーを開催することとなった。新学期が始まる前の1週間ほどの短い期間に、限られたスペースで8000人を超える学生を対象として想定するセミナーを行うために、一人当たりの受講時間を60分程度と設定せざるを得なかったが、最低限触れるべきこととしては、電源切断前のシャットダウン操作・パスワードの管理・ネットワーク利用のマナーとエチケット・各種規約の存在にしぼることとなった。
海外に駐在する商社員・銀行員が英語を駆使して不法な商行為を行い、あるいは詐欺を行ったとしても、大学時代に会計学・商法・英語を教えた教員に対して責任を追及する声があがるという話は聞いたことがない。しかし、ネットワークの利用を通じて不快な経験をすると、その経験に早稲田大学の学生が関与している可能性があるというだけで、早稲田大学のホームページに連絡先が掲載されている広報担当にメールが送られ、それがメディアネットワークセンターに転送されてくる。恐らく、他の大学・研究教育機関においても、ネットワークの運用を担当する部署においては同様の経験をしていることと思われる。メール・ニュースなどの配送に関わるシステム・ソフトの設定の不調のためにトラブルが生じて対策を講じる必要があるという連絡であればネットワーク・センターが対処せざるを得ないし、学生が学外で起こした事態の対処に大学が関与することもさまざまな場合にありえることではあるが、情報ネットワークを利用した通信の内容に関わる問題まで(場合によっては商業プロバイダを利用したやりとりまで、そこに関与するのが大学の関係者であるというだけで)ネットワーク・センターに苦情が持ち込まれ、責任の所在も必ずしも明確でないまま対応に追われるというのが実状である。
この1年ほど対応に苦慮してるのは、Webサイトでのチャットに対して、学内の端末から罵詈讒謗が書き込まれたという類の苦情である。[5]メール・ニュースに関しては、UNIX系のサーバにおける認証を経なければ発信できないシステムを組んでいるが、現在のサーバと端末の構成を検討した時点ではCGIを利用したWebサイトにおけるチャットは検討項目に入っていなかった。トラフィックの増大を可能な限り押さえるためのproxyの利用ともあいまって、情報発信の無認証状態が大学側の設定の責任であるのか、Webサイトの運営者の責任であるのか、ある種の空白地帯を現出させている。徹底した利用者管理も今後の検討課題ではあるが、ユーザのプライバシーとの兼ね合いも慎重に配慮する必要がある。
スパムやチェーンレターやインターネット講対策などはネットワーク・センター以外に大学内に適切に対応できる組織がないことは確かにしても、人間同士のコミュニケーションの最低限の礼儀を教えることがネットワーク・センターに可能であるかどうかは、自明であろう。[8,9,12]
必要にせまられて行ってはいても、冷静に考えてみればこうした「指導」の多くは、大学で行う「教育」とはとても思えない。トイレを使った後には水を流すのがマナーだと行っても、最近は赤外線などの各種センサーを利用して、使用後に自動的に水を流すところが増えている。同じように、そもそも電源の強制切断をできないようなハードを利用すればシャットダウン操作も「マナー」ではなく、基本操作になる。端末を起動する段階でユーザの認証を取り、利用の記録を管理すれば、無神経な情報発信に対する歯止めとなり、少なくとも事後的な対処が可能となる。[11]
「できること」と「やっていいこと」のはざまが「倫理」であるとすれば、「やってはこまること」についてはシステムとして「できなくしてしまう」ことによって、「倫理」の介在する余地は無限に小さくなっていく。エンドユーザが情報通信の内部に無知であることを望み、情報発信に伴う責任に無自覚であることを選ぶなら、こうしたシステムの設計・設定による対応が現実的な選択となるであろう。
システムとして可能であっても、明らかに法律に違反すること、明らかに利用規定に違反すること、あるいは明らかに学則に違反することは「できないこと」に限りなく近い。問題は、法律の文言、規定の表現は一般的な記述にならざるをえず、具体的な事態についての判断が一律には得られないことである。[10]おそらくはそこに「倫理」の介在する余地が生じるのであろう。
自動車の運転に必要な免許を得るためには、自動車の動作原理についての理解と、運転に伴う法律的な責任についての知識と、実際の運転技能の習得が前提となる。同じように、ネットワーク利用に関しても、動作原理・法的責任・具体的操作の3つを並行して教育することが重要であろう。
法律的な側面も含めて学生に対して情報入門教育を行おうとしたとき、その内容についての議論も含めて、適切な担当者が得られるかどうかが最大の問題点である。情報処理入門を担当している計算機科学の専門家は知的所有権・個人情報保護などについて必ずしも専門的訓練を受けておらず、自信がない(ふりをしたがる)。一方、法律の専門家は計算機の利用実態について必ずしも詳しくないし、機械の操作を教えたいとは思っていない。また、著作権などの知的所有権やプライバシーの保護などに関連する法規についても、現在、あるいは今後のネットワーク社会に適合していない側面がある上、利害の対立がどのように調整されるか予想が困難であり、国際間の司法制度のずれとゆらぎなど、専門家にとっても個々の事象について確定的な判断を下しにくい状況がある。
ネットワークの利用について、まだ電子メールを使ったこともない学生に講義しても、具体的なイメージがわかない以上実感として定着しないし、かといって、マナーを教えないまま使わせはじめるのは問題が多い。また、関連技術・利用環境の急変化にともない、ネットワークの利用に関する「常識」はつねに変動している。さまざまな分野の専門家を抱える大学においては、インターネット利用について何を優先すべきか、研究分野の特性やネットワーク利用の状況によって価値観が対立しがちであるし、[9]ユーザの利便と利用規制は対立し、公平な課金制度の設定は困難である。
大学における情報倫理教育の内容を検討するためには、情報化社会の社会科学的ならびに人文科学的な研究が不可欠である。そのためには、情報処理入門教育を担当する部署だけではなく、倫理学・政治学・経済学・法学・商学・社会学・心理学・人間科学など、大学の中のすべての分野の研究者・教員の協力を得ながら議論を進める必要がある。 また、大学における情報倫理教育を実効性のあるものとするためには、学科目に限らず、生活指導も含め、学部教育とのより緊密な連動が不可欠となる。特に、語学教育・専門教育・一般教育などのレポート・作文・論文の作成指導において、他者の著作物・発言からの引用と自らの著す地の文を区別するとか、引用・紹介の出典を明記するといった「作文の常識」の指導が行われない限り、ネットワークを利用した情報発信に際して第三者の知的所有権を尊重せよという指導をしても、絵に描いた餅にもならない。
さらに、ネットワーク利用のマナーについては、日常生活の常識がそのままでは必ずしも通用しない側面があり、ネットワークの利用に関して何を優先するかも含めて、利用規定のできるだけ詳細な明文化が絶対的な条件となる。
現在の過渡的な状態が収束すれば、多くの大学生は入学時点ですでにパソコンやネットワークの利用にある程度習熟し、あるいはすくなくとも機器の操作について具体的な講習をする必要はなくなることが予想される。そのとき大学において情報入門教育として何を教えるべきであるか、情報教育を一般教育として行う意義を考えれば答えは明らかであろう。
共有資源としてのネットワークをどのように利用することが適切であるのか、人類の知的共有資源としてのネットワーク上に分散された情報をどのように再利用するのが公正であるのかを考える契機を与えることは、すなわち本来の意味での情報倫理教育につながるであろう。