次の文章は 1990 年の夏頃に作成した原稿の一部である。カリキュラム改革に関連して書いているうちに、カリキュラム、すなわち教科課程ではなく、教育方法の話に流れてしまってどうしようかと思っているうちに在外研究に出てしまい、そのままハードディスクの中に埋もれさせていたのだが、1994 年の春になって、語学教育研究所を中心として、外国語教育における計算機利用の可能性について検討するプロジェクトが始まり、こうした問題について改めて考え直すことになった。読み直してみると、考え方の基本において変わっていないこともあり、その当時妄想に過ぎなかったことが実現している面もあるので、その後の時間の移り変わりで無意味になってしまった部分もあるが、最小限の字句の修正にとどめて、比較的そのままの形で今回あえて発表させていただくことにした。変化の激しい計算機の世界で4年も前の文章であることを念頭においてながめていただければ幸いである。
0. 研究と教育の「情報化」!?
早稲田大学の「情報化」が緊急の課題であるらしい。研究だとか教育だとかの「情報化」と言われても何のことかさっぱり分からない。「情報化」といえば<情報>でなかったものが<情報>になるということのつもりだろうが、そうではなさそうである。「現代化」といえば、<現代>でなかったものを<現代>にするとか、<現代>に適合していないものを<現代>に適合させる、ということであろうが、大学に棲息する<研究者>ならびに<教育者>たちの取り扱ってきたものはそもそも<情報>ではなかったのであろうか?<理念>だったのだろうか。もしかしたら、<情報>ではなく<紙屑>を後生大事に抱えてきたのかも知れないが、そうでないとしたら<情報化>というのは何なのだろう?これが<電子化>というのなら分からなくもない。<研究体制>における<電子化>なら、図書館の文献情報が<学術情報システム>になって、研究室に<端末機>が設置されて、といった構想が想像できなくもないが、<教育の情報化>となるとなんのことだかさっぱり分からなくなる。1
1. 「情報教育」はユーザ教育
「情報教育」といっても、何のことやら分からないかも知れない。2 本当は<一般教育としての情報科学教育>あたりの方が適当な表現かも知れないけれども、こう言ってしまうと、<理論>としての<情報科学>に引き付けて考える人が多過ぎるかも知れない。ここで考えようとしているのは、例えば計算機の操作とか、データベースの使い方とか、あるいは図書館の利用法とかいったような、いわゆる<図書館情報学>といったような分野関する、大学生なら誰でも知っていなければならないような事柄を、あくまでもユーザとしての立場から、実使用に当たっての技術的な側面と、理念的・原理的側面の両方から教えて行くような、そういった教育である。3
これはいわゆる<コンピュータ・リテラシー>の教育と大体類似した内容であると思って間違いないであろう。この言葉についてもあれこれの議論があるようだが、要するに、回りが計算機だらけになっても困らないだけの計算機の利用に関する技能を身に着けさせる、ということだと考えておけば間違いではないだろう。 「読み、書き、算盤」というのが初等教育の古典的な内容表現ではあるが、これも、回りが文字と数字を使っていても困らないようにするということではある。ただ、<コンピュータ・リテラシー>という表現を使うと、まず計算機・ハードウェアの実使用に偏った響きがある。使い方の技術的な側面に偏って誤解されるおそれがある。あるいは、図書館の使い方、とか、ドキュメンテーションとか、といったような、計算機から離れたようなことが抜け落ちると感じる人がいるかも知れない。(いずれもおそらくは<単なる誤解>ではあろうが、そのような誤解を招きかねない響きがあるということである)ということで<情報教育>というわけのわからない表現を持ち出したのではあるが、これも、<専門教育>としての<情報科学教育>ないし<計算機教育>と勘違いする人が多いかも知れない。
例えば、大学の特に学部の4年間でいちばん大切なことの一つに、図書館の使い方を覚えることをあげることが出来ると思うが、日本のたいていの大学のたいていの学部で、そんなことは正規のカリキュラムに組み込まれていない。<図書館学>となると、こんどは司書を養成するコースの方になってしまう。 4 要するに日本では<ユーザ教育>というものが基本的に欠けているのである。計算機に関しても、<計算機に関する専門家・計算機を設計制作する専門家>を作るための教育はそれなりにあるが、<計算機を使う人間>を養成する教育、<賢いユーザとなるための教育>というのは、理工系でもどこまでうまくいっているのかよくわからない。
<ユーザ教育>が欠落している、というのは何も<計算機>に限った話ではない。<外国語教育>を考えてみても、大学の文学部の中で<外国文学者>を養成するコースははっきりしているが、そうではない一般の大学生に一般教育として外国語を<使えるように>教育する、といった考えが出てきたのは、日本ではせいぜいここ20年ぐらいのことであるように見受けられる。ということで、ここで展開したかった話というのは、大学で一般の学生に<ユーザとして>外国語が使えるようになるような教育を行なう、そういう<ユーザ>としての<外国語教育>を想定してそれを<現代化>しようとすると、必然的に<情報教育>との統合化を考えなければならなくなるというような話ではあったのだが、今回はスケールダウンして、簡単な事例報告でお茶を濁すことにする。5 [1994 年 10 月 16 日追記:その後上記の点に関連して次のような文章を書いたので参照していただきたい。『「語学の情報教育」ネットワーク時代の英文作法をめざして』, 1994 年 6 月 27 日, 社団法人情報教育協会発行, 私情協ジャーナル Summer '94, Vol. 3, No. 1, (通巻 66 号), pp. 20-21, ISSN 0981-4376.]
2. 試行錯誤 6
どうせ英作文を教えるなら、計算機とネットワークを使ってみたい、と前から思っていた。7 なぜかというと、
(1) 自分が英語で(日本語でもそうだが)文章を書くときは必ず機械を使っている。なぜいまさら「紙と鉛筆」を前提として文章を書かせる練習をするのか?
(2) 計算機を使えば、スペルチェッカー、文法チェッカー、禁則処理、フォーマッティングなどのさまざまな<文章作成支援>を利用する可能性が開ける。
(3) フロッピーで作文を提出させれば添削も簡単なはずである。電子メールで作文を提出させれば集計も簡単なはずである。
というように考えているところに、去年の秋に情報科学研究教育センターの24号館端末室が完成した。たまたま、ある必修クラスの学生数が10人程度であって、これぐらいなら端末室に連れて行って計算機の使い方を教えてもなんとかなるかな、と思ってとにかくやってみたわけである。[1994 年 10 月 16 日追記:実はこの前の年度の終わりにも9号館端末室に学生たちを連れていって BITNET を使わせたことがある] このクラスでは基本的にはLL教室を使って英語によるニュースの聞き取りを中心に授業を行っていた。この背景にある考え方は次のようなものである。
(1) 法学部に来る学生は、英語を「読む」ことに関しては、十分ではないにしても、ある程度の訓練を受けてきている。
(2) 英語を「聞いて理解する」ことに関しては、一部の例外を除いて、「読む」ことに関してほどの訓練を受けてきていない場合が多い。
(3) 「読む」ことに関してある程度の到達度にある学生に対しては、継続的な訓練をほどこせばそれと同じ程度の「聞いて理解する」能力をつけさせることが、現行の英語の授業体制でも十分可能である。
(4) 英語を書けない(英語で書く内容を持っていない)学生に対して「会話」を教えようとしても「会話」が成立するはずがない。
(5) 英語を「聞いて理解する」訓練を受けていない学生に対して「会話」を教えようとしても「会話」が成立するはずがない。
したがって、必修の英語のクラスで<読める程度の英語>を<聞いて理解できる>ことを目標として設定するのは自然であるし合理的である。
具体的には、英語によるニュース放送のうち、国内の出来事を扱った5分ほどのビデオを素材にして
(1) 始めの30分はこのニュースを数回に渡りメモを取りながら見せて、学生に順次その内容を簡単に紹介させる。
(2) 中程の30分で聞き取りに関する基本的な練習を別の教材を用いて行う。
(3) 最後の30分でニュースの中でおもしろそうなもの、むずかしそうなものを一つか二つ録音させ、テープから英語で内容を書き起こさせる。最後に、あるいは次の授業の時に学生を指名してこれを板書させる。内容の要旨または全文の翻訳を宿題として次回に提出させる。
[1994 年 10 月 16 日追記:上記の内容は一部 1991 年春の法学部報に新しい視聴覚教室の説明をかねて紹介したことがある。なお、現在でも同様の主旨の授業を行っているが、視聴覚教室の機器の更新が済んだので、板書の変わりに EPSON のパーソナルコンピュータに入力した英文を100インチのプロジェクタから投影するなどという提示も可能となっている]
さて、このうち、テープから英語で内容を書き起こす、というところで、<英語で文章を書く>という作業が入る。また、<全文の翻訳>という所で<日本語で文章を書く>という作業が入る。ここのところでまず、計算機を利用できるわけである。また、英語で文章を書くということを更に強調したければ、いくつかの課題を与えて宿題として英作文を課すことは、その気になりさえすれば、どのような英語の授業でも、可能なわけである。
そこで、この10人ほどの学生をまずLL教室で<いつもの>授業を時間を切り詰めながら行った後に最後の30分ほど端末室に引き連れて行って、計算機の使い方を教えるという試みを、後期になって数回行ってみた。基本的なことを教えた後は、提出物は端末室の計算機を使用して提出すること、電子メールで提出すること、という指示を与えることにして、あとは普通の授業に戻ったわけであるが、いろいろな点で困難があることが判明した。
(1) LL教室は8号館にあるが端末室は24号館にある。自分では片道5分もあれば十分に移動ができるので、まあなんとかなると思っていたが、学生を授業中に移動させると言うのはやはり賢明なことではない。(実は端末室は9号館にもあるのだが、24号館の方が、あれこれ便利ではある)いちばん望ましいのは、LL教室に一人一台分程度、ブック型パソコンでも導入することである。これが難しいとしても、タイプライター室がわりに、ブック型パソコンを人数分おいた語学用教室がいくつか法学部にあっても不思議ではないと思うのだが、語学用教室にテープレコーダさえ完備していない現状では難しいかもしれない。逆に、端末室にLL設備を導入する方が簡単なのかも知れないが、残念ながら法学部は独自の端末室を備えていないし、またその必然性も現在では希薄に思えるかも知れない。
(2) 一回30分程度の説明を積み上げる形で計算機の使い方を説明したが、これはもっと触りたい、という気持ちを起こさせる効果はあるが、途中で欠席した学生は次から話がわからなくなるという欠点がある。結局、授業時間外になんども同じことを説明する羽目になってしまった。
(3) 学生が意外にものを知らない。今時の学生なら、パソコンはともかくワープロぐらい使ったことはあるだろうと思っていたが、興味はあっても触ったことがない、という学生が多かった。特に、フロッピーディスクといっても何のことかわからない、とか3.5インチと5インチの区別、2DDと2HDの区別といったことを全く知らないのは意外であった。
(4) キーボードを見たこともない、という学生が多い。qwerty 配列と言うのはあれこれ問題もあるだろうが、現実的にはこれに慣れないことには仕方がない。計算機を使い始めたときブラインドタッチの練習をさせないというのは、外国語を初めて教えるときに発音やプロソディをきちんと教えないのと同じように無謀なことである。中学や高校でパソコンを教えておいて、大学に入ってからタッチタイプを教えるというのは、英語の勉強を始めてから6年以上もたって発音を教え直そうとするのと同じように無茶である。ところが、キーボードの練習用ソフトが意外にまともでない。少なくとも英語の文章を綴ることを前提に考えると、4から10ストロークぐらいをワンセットにして、その後にスペースバーを叩く、というリズムを基本にホームポジションを練習する必要がある。そして、それだけ練習しておけば、あとは実際に英文を打ち込んで行くこと自体がタイピングの練習になるのだが、タイピングの実態とかけ離れたキーボード練習と言うのが実は多い。
(5) 最後に電子メールで作文を提出させようと BITNET の使い方を30分で説明しようとしたが、これはやはり無謀であった。パソコンを端末機として使ってホスト計算機を使う場合、ユーザはパソコンのOS、パソコンの端末エミュレータ・ソフト、ホスト計算機のOS、ホスト計算機のアプリケーション・ソフトなどのように、異質でさまざまなレベルのものを一度に相手にすることになるので、初心者には大変に分かりづらいものになる。特に IBM で BITNET を使おうとすると、mailer と system editor を相手にすることになり、これが分かりにくい。job control が出来ないし、あちこちいろんなモードに勝手にほうり込まれて苦労することになる。
というわけで、メールで作文を出せ、といっては見たものの、学生が途方にくれているのも明らかだったので、週末に端末室で相手をするような羽目になってしまった。関係ない学生まで、TAと勘違いして質問したりする。結局、なまじ計算機の使い方を知っていても、<省力化>になんかならないのである。
今年度も、たまたま一クラスが少人数だったので、またまた端末室に引き連れていってみた。去年の経験から、いくつか用意したことがある。
(1) タイプ練習プログラムを新しいものに変えてもらった。その昔 BASIC で遊んでいた頃作ったものがあって、センターが用意していたものよりはましだったので、すこし手直ししてもらって使うことにした。さすがに自分で作ったものだから、使わせていていらいらしない。[1994 年 10 月 16 日追記:タイプ練習プログラムについては、その後ソフトウェアの水準が一般的にある程度改善された部分もあるが、タイプ練習プログラムを起動するためにはタイプできなければいけない、というような矛盾した側面が完全に解消した訳ではない]
(2) MS-DOS の基本についてわりあいゆっくりと教えることにした。といっても、ファイルとはなにか、ファイル一覧の見方、ファイルの中身ののぞき方、ファイルのコピーの仕方といったことだが、それにしても、パソコンを使っている、という印象を明確に与えようと考えたわけである。何事も、自分がなにをしているのか意識的に把握している方が安心である。
(3) BITNET の使い方を後期に説明するつもりだが、うまくいくかどうかはまだわからない。それよりは、英文ワープロソフトやスペルチェッカーの使い方をもっと教えてやりたいような気もするが、あんまりそんなことばっかりやってると、これでも英語の授業か、と言われるのではないかと思って遠慮しているわけではある。
3. まとめにかえて
さて、もしかりに教室の手配などがうまく行き、学生一人に対して一台の計算機を使える環境で英作文を教えることができるようになったら、次のようなことが可能になる。(ここからはほとんど妄想の世界になるが、最近は妄想すると一年とたたずに現実となることが多いので、とりあえず書いておこう)[1994 年 10 月 16 日追記:そのあと在外研究に出ていたために遅くなったが、昨 1993 度随意科目としての英作文演習を担当し、今年度には自由科目としての英作文演習と英語 B 表現演習1コマを担当して、以下の目標はある程度のところまで到達できそうな見通しが立ってきた]
(1) まず、ホームポジションの練習を含めて、パソコンの使い方の基本を一通り教える。
(2) 次にスペルチェッカーも含めて、英文ワープロの使い方を教える。
(3) 現状ではまだ十分な機能をもったものは期待できないが、構文チェック、文体チェックのソフトウェアもいくつかはあるので、使い方を指導することに意味があろう。
こうした前提にたって、どのような英作文の指導が可能となるのであろうか。逆に、今の大学生は英語で文章を書くことに対してどのような点がわかっていないかを列挙してみよう。(もちろん、何事にも例外はある。だが、法学部に入学する学生の大部分は、次のような点をまったく理解していない。もっとも、英文科を卒業したところで、こうした点をまったく意識したことがないという人間も日本には山ほどいることだろう)
(1) punctuation, capitalization, syllabification といった英文表記の基本をまったく理解していない。
a. 大部分の学生は大文字と小文字の使い分けがあやしい。特に、接続詞の後の文字を大文字にするという傾向が顕著に見られる。
b. ピリオドを使えない学生はそれほどいないが、コロンやセミコロンの存在を意識したことのない学生は多い。
c. 行末で単語を続けるとき、syllabification を確認する学生は皆無といってよい。また、行の初めにハイフン、コンマ、ピリオドを平気で書く。禁則の存在をしらない。
d. パラグラフの初めを indent するということは見たことも聞いたこともない、というような顔をする。
(2) 英語で文章を構成するということに関して次のようなことがらに注目させながら、文章構成の基本を練習する、といった授業が可能となろう。
a. 本論における argumentation の前に結論的に内容を先取りした前振りがあり、本論の後に事後確認のように結論が繰り返さえれうというのが英語で文章をまとめる場合の基本である。
b. 文章は一つないし複数のパラグラフからなる。
c. 一つのパラグラフの中の文の間にはいくつかの論理的関係がある。それらの関係として典型的なものとしては<原因と結果の関係>、<一般論と例示の関係>、<主張と論拠の関係>、<譲歩の関係>、<順接の関係>などがある。
d. 文の間の論理的関係を表すものとしていくつか典型的な表現がある。
さて、このように書くと、こうしたことを教えるのに<わざわざ>計算機を使う意味がどこにあるのか、ということになりかねないが、そんなものはなくて当然である。[1994 年 10 月 16 日追記:実はやってみたらあることがわかった。これについては、また稿を改めて書く予定]何しろこれは、英語の授業をどのように現代化するか、英語で文章をつづることに関して<現在>何をどうやって教えていくべきか、という話なのであるから、計算機は単に<紙と鉛筆>の替わりにあるというに過ぎないのである。問われるべきなのは、いま世の中にこれだけ計算機があふれているのに、わざわざ計算機を使わずに<紙と鉛筆>で英語を書かせることにどのような意味があるか、どのような<現代性>があるのかという点なのである。<計算機>と<ネットワーク>はコミュニケーションの道具である。だからこそ<リテラシー>が問題になる。だからこそ、<外国語教育>との統合化が必要なのである。
付記:
外国語教育における計算機の利用に関しては、「LLA関西支部研究集録 3 外国語教育におけるコンピュータ利用」が比較的<意欲的>な特集を組んでいる。計算機をどのように利用できるかに関しては北村裕による「語学教育とニューメディア」ならびに北村裕・安田雅美による「外国語教師のためのコンピュータ利用入門」などが参考となろう。また、作文指導における計算機利用に関しては Bernard Susser による "An Introduction to CACI for ESL/EFL Classes" と枝沢康代による「コンピュータによる英作文指導(CACI)の実践」が詳しい。
また、CAI(計算機支援学習)とLLとの統合化に関しても、最近は国内のいくつかの大学において研究・実践が行われている模様である。例えば、語学ラボラトリー学会の1990年度の発表論集を眺めると、この点に関して創価大学、名古屋学院大学、園田学園女子大学、同志社女子大学、東海大学などからの報告・発表が見受けられる。
もちろん、こうした他大学における研究・実践の結果得られる知見ががそのまま法学部における学部英語教育にあてはまるわけではないが、外国語教育のさまざまな可能性を示唆してくれることは認めてもよいだろう。
注
* タイトルばかり長くなってしまったが、要するにそういう話である。端末室で英語の授業をすることに関して積極的に協力をして下さった情報科学研究教育センターの関係者の方々に感謝する。
1. ニューメディアを積極的に教育に利用していこう、という話ならわからないこともない。(付記参照)<ニューメディア>が何を指すかは、例えば Stewart Brand による The Media Lab --- Inventing the Future at M.I.T. などが参考になろう。また、次のような話もアメリカにはある。[1994 年 10 月 16 日追記:<ニューメディア>というのは完全に時代遅れのことばになってしまったようである。<マルチメディア>はいつまでもつのだろうか]
コーネル大学のネットワークでは、図書館が重要な情報資源の一つとなっている。...コーネル大学の図書館に期待されているのは、全米のあらゆる場所のすべての重要なデータベースに対する窓口としての機能である。...またネットワークを直接使って全米規模の文献・情報源へアクセスする方法も教職員や学生に教育している。「米国主要大学におけるキャンパス・ネットワーキング(5)コーネル大学」コンピュータサイエンス誌 bit, vol. 21, No. 10, p.69, 1989)
2. もしかしたら他の人も同じような意味で使っているのかも知れないが、原稿を書き始めたとき急に思い付いて使った言葉であるから、他人が分からなくても当然である。(1994 年 10 月 16 日追記:「情報教育」というのは今日ではかなり一般的な表現になったようである。私立大学情報教育協議会という組織が設立されたのは199*年*月のことである)
3. つまりは、「使えないと困る」ことをともかく「使えるようにしよう」ということがらではある。
4. 例えば図書館の側では次のような反省があるようだが、教員・学部の側ではどうであろうか?例えば、図書館利用教育を学部の正規のカリキュラムに組み込む考えがありえるだろうか?
これまで図書館は大学図書館との認識のうえで、授業・研究との係わりを充分重視してきたであろうか。多分に希薄であったため図書館利用教育についても一部の教員・先輩学生(大学院生など)による単独実施、図書館単独の実行という形が採られてきた。...こうした利用者のレベルに応じた段階的図書館利用教育が、図書館独自に行われるのではなく教員との十分な打ち合わせのもとに実施されれば、学生に対してより有効な方法となるであろう。(「平成三年、次なる行動は?」早稲田フォーラム、No. 61. pp.198-202. 千葉範子 (1990) )
5. 例えば次のような議論がある。
ちなみに米国におけるコンピュータ・センター利用者の約70%はワープロ利用である。コミュニケーションの道具としてのコンピュータ利用教育は、情報科学の実習のみでは不備な点も多く、語学の授業をLLからコンピュータ・センターに移す(またはLLの装置を広くネットワーク化する)こと等も含めて、多くの人々の協力が必要である。(「米国主要大学におけるキャンパス・ネットワーキング(1)カーネギーメロン大学」のうち「訳者より」の項 コンピュータサイエンス誌 bit 1989, vol.21, No.7, p.17 )
6. ともかく使わせてみた、ということではある。
7. といったところで、外国語教育の場に計算機を持ち込んで、CAI(計算機支援学習)をしようという話ではない。外国語教育にいかにして virtual reality を与えるか、という話である。(それはそれで面白い話になりそうだけれど、ここではそうした技術的な議論よりはもう少し教育原理的・教育哲学的な論述が求められているのであろうと勝手に思い込むことにする。)いわゆるCAIがつまらないのは、教育内容に対する本質的な反省がないままに計算機環境を持ち込もうとする例が多いからである。計算機環境の導入自体が学生の住む世界を変え、それが教育内容に対する再考を促す筈である。
1983年、MIT は DEC 社および IBM 社と5年計画の共同の大企画としてアテナ・プロジェクト (Project Athena) を締結した。1984年に書かれたドキュメントで、プロジェクトのディレクタであるスティーブン・レーマンはその役割を「MIT の全カリキュラム対して、先進のネットワーク化されたグラフィック・ワークステーション導入の価値を探求することである」と述べている。...しかし、本来の目標はそのハードウェアではなく、このコンピュータ・パワーが基本的なところから教育の内容を改善できるかどうかを確かめることであった。(「米国主要大学におけるキャンパス・ネットワーキング(2)マサチューセッツ工科大学」コンピュータサイエンス誌 bit 1989, vol.21, No.8, p.35ー36.)