メディアと文科系教育

早稲田大学法学部教授
語学教育研究所兼任研究員
メディアネットワークセンター教務主任
原田 康也

[注意事項]

メディアと文科系教育
  1. はじめに

    筆者は英語と日本語の文法理論的研究、計算言語学と認知科学の立場からの分析を専門とする言語学者であるが、法学部の外国語科目としての英語を担当する中で、本来の意味での英作文、つまり英語による文章作成法を現在の大学生たちにどのように教えたらよいかさまざまに試行錯誤を行ってきた。また、英作文のほか、聞き取りや講読などの英語の授業や一般教育科目の言語学の授業においても、ビデオなどのAV装置のほかにパソコンやネットワークを利用する試みを繰り返してきた。現在はメディアとしてのネットワークを大学教育にどのように応用するかを考える立場にあるが、今回の発表はそうした試行錯誤の一つの通過地点である。

  2. 文科系におけるメディア教育

    教育とメディアの関わりについては二つの側面から議論することが可能であろう。一つは、教育方法・教育技術の側面から、既存の教育内容・教科課程についてはとりあえず不問として、これをより効率的に、あるいはより深く教授していくための道具としてメディアをどう利用するかという観点からの議論がありえる。もう一つは、これからの学生たちが社会人となったとき生きてゆくことになるであろうデジタル・メディア社会において求められる基本的な技能の習得に関して、学校教育・大学教育の果たすべき役割について、教育内容・教科課程はもとより、その目的論も含めて議論すべき課題も多い。

    1. 英語教育における情報機器の利用

      早稲田大学法学部では英語に関して、1年次において1科目が必修で1科目が選択必修、2年次において2科目が選択必修となっている。このほか学年にかかわらず随意に履修できる自由科目と、3、4年次に履修できる科目が設置されている。選択科目は授業内容に基づいて、総合英語、表現演習、口頭表現演習などのように区分され、詳細な内容を紹介した講義要項を配布するなど、学生の科目選択の助けとなるよう配慮されている。

      今年度筆者は、選択必修科目としての総合英語(登録者数40人)並びに3、4年次配当の英作文演習(登録者数19人)を担当している。必修(自動登録)ならびに選択必修の総合英語では、LL教室を利用して、TVの英語によるニュース放送を素材として聴きとりや書きおこしの演習をしているが、100インチのプロジェクターにEPSONのラップトップ・パソコンを接続し、一種の教材提示装置として板書の替わりに使用していたが、文字が小さくて見ずらい、教室を暗くするので目が疲れる、などの苦情が多かったために、授業時に安価なスキャンコンバータを持ち込んで、ブースモニタに文字を映し出すようにしている。今年度後期には Windows のパソコンに置き換える予定なので、WWWやCD-ROMなどの表示もプロジェクタやブースモニターから見せることが可能となる。英作文の指導においては、インターネットに接続された Windows のPCを利用しているが、いまのところは 電子メールを利用して授業中に見せたビデオの感想を集めたりする一方で、WindowsNTベースの LAN 環境を利用して、教材配布、課題提出に利用しながら、MS-Word を使って文章作成の基本を教えている段階である。

    2. メディア空間としての教室

      教育というのは、本来的に世代間のコミュニケーションの場であるから、言語情報科学的ないし通信工学的観点から教室空間のデザインを議論する必要がある。筆写という複製技術しかなかった時代の情報伝達方式である講義形式がいまだにもっとも一般的な授業形態である文科系の学部では、伝統的な教室配置以外の検討はまったく行われてこなかった。実験的な例外を除いては、パソコンを配備した教室もただの端末室となりがちである。一方的な情報伝達から、相互的な認識のすりあわせへと、教育の意義が変われば、それに応じて教室の空間的デザインも、机や椅子の配置も、付属的な機器設備のあり方も変わるはずである。

      言語の使用は本質的にマルチモーダルである。音声言語には segmentalな記号的情報伝達作用と suprasegmental な情緒的情報伝達作用が不可分に伴う。成人の外国語教育においては、テキストの十全な理解のためには、情感の伴った音声への変換が必要であり、音声の十全な理解のためには、テキストへの変換が有効である。言葉は言葉以外の世界と結びついてはじめて意味作用が生じる。広く市販されている外国語教材の多くは、挿し絵が状況を示し、テキストが会話と説明を構成し、レコード・テープ・CDなどの音声素材が添付されていた。こうした構成は今世紀初頭から現在のCD-ROM 教材までほとんど一貫してみられるが、コメニウスのラテン語の教科書以来の伝統に従っている。数学教育に於いては、式で書け、文章で説明でき、図に示すことができるかどうかで理解の深さを計ることができるとされていた。これらはある種のモード変換であろうが、こうしたことは計算機を利用して容易に行うことができるようになりつつある。語学との関連でも、昨今のパソコンは各種の辞書をプレインストールするのみならず、簡単な音声読み上げや音声認識のソフトを備えていたりする。

      語学教育へのメディア利用の一般的可能性としては、CD-ROMやネットワークを利用した自習(補習)用CAIの制作と利用、パソコンとプロジェクタを組み合わせたCD-ROMやWWWの(マルチメディア)ドキュメント提示、LAN環境を利用しての作文、要約、翻訳などの課題提出と学習履歴の保存などが考えられる。また、video on demandなども含め、デジタル化した音声・画像情報のノンリニア再生がこれからのAVLL環境の再構築に際して重要な課題となることはいうまでもない。WWWやCUSeeMeなど学外とのネットワーク接続の有効利用も緊急の課題である。

    3. メディアリテラシーとしての英語教育

      大学の一般教育科目においては、専門科目、語学を問わず、文章で考えを表現すること、論理的に議論を進めること、他者の考えや客観的事実を文献やそのほかの資料を正しく引用しながら紹介しつつ自己の考えを示すことなどを学ぶ必要がある。一般教育ゼミや専門科目のゼミにおいてもこうした側面は強調されていることと思われるが、ワープロなどの利用法まで含めて作文の技術的側面について正面から取り上げる授業科目がカリキュラムの中に正しく位置づけられていることはまれである。情報検索システムの利用法も含めて図書館の利用法が大学の正規のカリキュラムの中に正当に位置づけられていない点とならんで、従来の日本の大学における教育システムの重大な欠陥といえよう。日本語の作文という授業科目がない現状においては、外国語、特に既習外国語である英語においても、こうした側面を念頭においた授業を模索する必要がある。

      インターネットの普及と同時並行的に発信型の英語教育が話題になっている。ネットワークを介しての文字による通信の可能性が増えれば、外国語による作文についても、新しい必然性が生まれる可能性がある。教養課程に関するここ数年の話題といえば、駒場(東大教養学部)の「知の技法」に代表される「教養基礎演習」と湘南藤沢(慶応義塾大学環境情報学部・総合政策学部)に代表される「発信型英語学習」であろう。このふたつはいずれも「対話と自己表現のための英語」につながる。

      英作文の練習のための英作文は不毛であり、コンピュータ操作の練習のためのコンピュータ操作は不毛である。語学教育と情報教育はその目的も方法も共通の部分が多い。いずれもコミュニケーションの方法を修得することが本質であり、大部分の学生にとっては本来の専門科目に関わる学習の手段であるに過ぎない。英語で議論を戦わせる相手もいないまま、英語の勉強をできるわけがない。ネットワークが、この状況を唐突に変えつつある。英語教育にインターネットを取り入れようという期待感は非常に大きく見える。

    4. 協調的協同行為としての英作文

      レポートを書いたり、文章をまとめたりするという作業は、昔は密室で孤独に行うものと思われていた。しかし、実は作文というのは読み手と書き手との間の共同作業である。アカデミックな分野では、論文を発表する場合、投稿した原稿を査読委員が評価し、必要に応じて修正した原稿をさらに編集委員が評価して、最終的に採録かどうかの結論に至るというのが一般的である。また、こうしたいわば公式の原稿修正以前の段階でも、比較的身近な研究者仲間に草稿を配布してコメントを求め、それを参考にして修正を重ねるという手順を踏む場合も多い。アカデミックな分野以外でも、文章のテーマは多くの場合執筆者と編集者などの話し合いの過程の中で次第に明確化していくもので、原稿が印刷物になるまでには、編集や校正の段階で大幅な変更が加えられていくことがふつうである。読者を想定しない文章作成は基本的にナンセンスであり、複数の人間が分担して、あるいは共同で文章をまとめる場合も含め、文章をまとめるという行為は多くの人間の共同作業として成り立っていることを強く認識することが今日的であるといえよう。

      今年度の英作文の授業でも、グループに分かれて英文によってある一つの主張を行うことを目標に、文章の論理的展開方法の基本について考え、これを英語においてどのように表現するか、実践を通して練習していくとともに、英作文を上のような意味での共同行為としてとらえ、これを効率よく実現していく手段として、さまざまな電子的入力編集手段の利用方法を実習している。機械操作に関しては、キーボード初心者も多いことから、タッチタイプの練習も含めて一応の基礎から始めるが、ワープロソフトなどの扱い方を実習した上で、インターネット上で電子メールや WWW を利用して情報を収集したり発信したりする方法を学び、peer evaluation / peer revision などを取り込んでグループで論文をまとめるといった作業に取り組んでみる予定でいる。参考となる文献資料の電子的な求め方、あるいは資料に対する言及方法の基礎的な事項についても触れる機会があるので、多くの学生にとってはレポート作成のために必要な基礎的方法論を考え直す機会ともなると期待している。

      ワープロで文章を書くのは、計算機資源を浪費してどうでもいい内容をさまざまに飾り立て、森林資源を浪費してプリントアウトするためではない。文章をまとめるためには、メモから断片的な文を作り、その構成も含め何度も修正を加えていく作業が必要となる。文章作成を結果だけではなくその過程も含めて指導し評価しようとすると、ワープロの利用は必然的になる。仲間と相互にアイデアを交換し、あるいは文章表現を批評しあうことを考えれば、ネットワークの利用は必然となる。

      文書や文章というのは必要になるたびにゼロから作りはじめるのではなく、可能な限り再生利用することが、作業の手間を省くだけでなく、必要な事項の見落としを防ぐ上からも重要であるが、試験やレポートなどの成績評価に直結した場面でしか文章を書くことを学ばなかった学生や、そのなれの果ての社会人1年生は、こうした基本的な事柄が把握できていない。キーボードを使って文章を綴ること、使える資料はすべて利用しながら作業を進めることは、「実社会」において文章作成を行なう際の常識的な手段である。

      従来の大学教育では、実践的技術の修得より理念の講義が、作業の過程よりは結果としての作品の評価が強調される傾向があったが、今後は実践的技術の修得を直接的な課題として、教室などにおける授業においても作業過程に付いて評価する方向性が重要であろう。文章作成においては、個々の文を正しくつづることは、作業全体の中ではあまり大きな位置を占めない。もちろん、ある程度正確に文を書くことができなければ、まとまりのある文章をつづることは非常に困難であるが、文章を書いてみる経験がなければ、その必要性がわからないという側面もある。実際的な場面を考えると、研究者になって論文を書くような場合、native speaker による原文校閲は個人的に、あるいは研究機関によって、あるいは学会レベルにおいて行われる。また、ビジネス社会に入っても、外国語の文書作成にはかならず native speaker によるチェックが入るはずであるから、「てにおは」レベルの文の正しさよりは、内容や全体の構成に対する感覚を養うことの方が学部レベルの作文教育においては重要なのではないかと思われる。

    5. 専門教育におけるメディア

      語学教育においては、LL教室やAV教室というような形で、こうした機器設備の利用というものが比較的早くから試みられてきた。また、パソコンLANを利用した授業やインターネットの利用、CAI教材の開発なども、大学の授業の中では語学教育が比較的明瞭なイメージを持ちやすい。比較すると、例えば法律の専門科目においてどのようにメディアを利用するか、あるいはメディア社会に向けてどのような教育を行っていくべきか、わかりやすいイメージを描きにくい。文科系の専門教育は、ことばによって概念を定義し、概念の操作によって理論を展開しようとする。法律に関わる論争、法廷における議論も、伝統的にはすべて言葉によって進められてきた。ことば以外の世界は、理論構築の際の挟雑物として排除されかねない。

      このような側面がありながらも、法律の専門教育におけるメディア利用について検討する動きが皆無であるわけではない。とりあえずは、レポート・ゼミ資料についてワープロの利用を課す教員は増えている。ゼミの運営に電子メールやWWWを利用したいという動きもある。紀要のバックナンバーを電子化しようという向きもある。しかし、電子機器の利用について自ら機器操作について説明しながらその意義を教えようという奇特な教員は皆無である。

      法廷の資料がワープロやパソコンで作成されるようになり、検察官・弁護士・裁判官が相互の資料作成のコストを低減するために、ファイルを交換する事態が発生しつつあるという。あるいは、裁判期間の長期化を避けるために、テレビ会議システムの導入も検討されつつあるという。しかし、法曹の世界においてこうした慣行が制度として確立するまでには、それらを既定する法律の制定が前提となるのであろう。伝統的には議論というものはことばを使って行うものであったが、現在では法廷の中ですらビデオの記録を見たり、コンピュータ・グラフィックスを利用して事件を再現しながら議論することが認められる場合もある。記録ビデオや CG などを見せることが理性的な判断にとって有益なのか有害なのかは立場によって意見が分かれる。法律の専門家にとっても、ドキュメントを電子化し、資料を可視化する意義・利害得失を法律論の立場から検討すべき時代であろう。

  3. 問題点
    1. 大学・学部などの体制

      語学教育・専門教育へのメディア利用の一般的可能性としては、CD-ROMやネットワークを利用した自習(補習)用CAIの制作と利用、パソコンとプロジェクタを組み合わせたCD-ROMやWWWの(マルチメディア)ドキュメント提示、LAN環境を利用してのレポートなどの課題提出と学習履歴の保存などが考えられる。しかし、これらが有効に機能するためには、これらを前提とした学部単位でのカリキュラムの策定、対象とする学生が十分に機器とソフトウェアを利用できる環境の構築、教員の教材作成と学生の学習活動を日常的に補佐する人員と予算の確保など、多くの学生を抱える大学・学部にとっては短期間では解決困難な課題が数多く控えている。

    2. 教員の立場から

      従来のLL教室や視聴覚設備にしても、これを日常的に利用している教員はむしろ例外的であり、大多数において板書と口頭の説明で講義を進めるというスタイルは一向に変わっていない。これは、設備が整っていないために使い方に慣れず、使い方に慣れないために設備に対する要求が明確化しないという連鎖である。PAシステムやOHPなどの教材提示装置、書画カメラの類でも、初期の比較的使いにくい時期に先駆的に導入し、その使いにくさのためにその後安価に大量に導入する機会があっても見送られているなどといった現状もよく見られる。

      一般論としては文科系教員の多くは電子機器の操作に自信がなく、プログラマブルな装置を扱いたがらない。個人としては普通に使っていても、授業という時間的制約が厳しく、精神的に緊張する場で不慣れな機械を扱うことに対する抵抗は非常に大きい。空間・予算・人員的な制約から、機器設備はいくつかの教室に集中的に配置することに成りがちであり、そのためにそれぞれの教員にとっては利用するあてのない装置も多く、またそれらの切り替えのための特注の機器がわかりやすくデザインされていることはまれである。例えば、AV+LL教室には、少なくともビデオとLDぐらいは必要になる。ビデオといってもNTSCのほかにPALやSECOMも必要だとか衛星放送もそのまま流したいということになると、5系統前後のソースを切り替えて使用することになる。出力先としては、大型ディスプレーとプロジェクタの両方を備えることもあり、また学生一人一人、または二人に1台の小型モニターを備える場合も多い。こうした場合、ボタンと操作結果を単純にするには15個のボタンを備えればよいことになるが、ボタンの数が多いとそれだけで圧倒される文科系教員は多い。逆にボタンの数を少なくすると、操作をインテリジェント化することになり、モード設定のデザインが悪いと使い勝手が悪くなってしまう。

      教室にパソコンやワークステーションがならび、高精細の画像表示装置と高忠実度音響施設が整えられたとしても、それを日々の授業で使いこなしていく前提条件を整えるのは難しい。それなりのサポート要員がいたり、デモ的な資料がないと、そもそも何ができるのか、多くの教員にはイメージがつかめない。教育用の機器が授業内容にそって有効に機能するためには、教員がそれぞれの授業科目においてどのようにメディアを利用できるか実験し、また、各種の器材の利用方法に慣れるための設備が必要となる。実験とはいえ、学生を引き連れて実際に授業を行ってみないことには何もわからない。クラス規模や時間割・教室配当の問題がまたしても実験の行く手を阻む傾向がある。授業のための資料の作成は利用できるメディアが増えるほど時間がかかる作業となる。英語の授業であれば、独自に素材を制作することに手間暇をかけるよりは、世の中にあふれているニュース、映画、新聞、雑誌、小説、本、CD-ROMパッケージなどなどの素材を教材として独自に若干の加工をするところにエネルギーを注ぐべきであろう。また、独自の素材であれ、すでにある素材であれ、一つの大学内、あるいはいくつかの大学グループ、あるいは日本の学校全体の共有財産として蓄積し、必要とする授業で比較的自由に利用できるような体制を考える必要がある。ハードウェア的には、共通の標準的フォーマットに基づくドキュメント群のネットワークを利用した分散データベースの構築となろうが、知的所有権などの無体財産権の適正な処理が緊急の課題となっている。

    3. 学生の立場から

      文学部の心理学・社会学あるいは経済学部や商学部など、本来数値計算を必要としていた学部・学科をのぞくと、多くの文科系学生にとって、情報処理・コンピュータなどといった科目は専門教育と無関係な一般教育科目の一つであり、外国語科目と同様に、卒業に必要な単位取得の手段あるいは履修しておくと就職に際して若干有利になるかも知れないという程度のものでしかない。コンピュータリテラシーや情報処理入門といった科目の授業内容からプログラミングが姿を消し、ワープロと表計算と電子メールといったアプリケーションの利用に比重が移った結果、従来より広範囲の学生が受講するようになっているとしても、専門科目との連携が深まったわけではない。学生がマルチメディア・オーサリングに熱中したとしても、多くの場合はアルバイトや趣味であるにとどまり、専門科目とは無関係なものでしかない。昨今の学生がWindowsとキーボードの操作方法の習得に狂奔し、インターネットに夢中になるのも、来るべきマルチメディア社会への期待と不安という夢ではなく、就職難という現実に押しつぶされているだけである。

      数値計算を必要とする専攻分野の学生であれば、ポケットコンピュータでもノートブックパソコンでもそれなりに使い道がある。しかし、文科系の学生の勉学にとって本当に必要な基本的リソースが電子化されて誰でも使える環境が整うまでには若干の時間が必要であろう。法学部の学生を例に取ると、各種の教科書(これだけでも厚くて重い)のほかに、基本六法や外国語の辞書を抱えて、片道1時間から2時間かけて学校に通ってくる場合が多い。ノートブックのパソコンを一人一台持たせるためには、ネットワークへの接続を教室に確保し、そこから辞書や法律の資料に簡単にアクセスできるというソフト面での環境整備がネットワークインフラの構築とともに求められている。

  4. まとめ

    コンピュータ・ネットワークの発達によって、情報伝達のあり方が根本的に変わりはじめてから半世紀が経った。そして、現在すべての学術的研究領域にわたって、情報の流通の仕方が根底から覆されようとしている。それは、ことによると紙にインクで印刷するという複製手段が一般的でなくなる日がまもなく来るかもしれないというハード的な側面と、学会誌というものが物理的に配布されることがなくなるかもしれないというソフト的な側面を持っている。すくなくとも、印刷物で情報を入所するという手段しか持たない者が、情報の流通から遮断され、あるいは致命的に立ち後れて行くという状況を示唆している。大学で教育と研究に携わるものとして、学生に対する教育と自らの研究のあり方にこのことがどのような変革をもたらすか見据えることが求められている。英語教育においても、計算機による文書処理や通信の可能性は、単に教育方法の目先の変化を意味するのではなく、英語に関して何を学ぶべきかという教育内容やそれをどのように組み立てていくかという教育課程や、さらには英語を学ぶということは果たして何であったのかという本質論についても根元的な再考を迫っているのである。

    英語はどこにあるのだろうか。Shakespeare 研究がすなわち英学である時代には、英語は Shakespeare 全集の中にあったといえよう。イギリス文学研究が英学である時代ならば、イギリス文学作品の中に英語があったといえよう。書き言葉としての英語を教えることだけを考えていた時代には、書物の中に英語があったといえる。今日では、その書物すら電子化され、CD-ROM に納められ、ネットワークの上を流通するようになってしまった。話し言葉はどこにあるのか。映画、テレビ、ラジオなどなど、メジャーなメディアに流れる英語は、多様な現実の知的に整理された上澄みであるにすぎない。話し言葉と書き言葉の区別も難しくなっている。テレビにはスクリプトがあり、closed -circuit caption がつく場合もある。小説が映画化・テレビ化され、あるいは映画やテレビドラマがノベライゼーションとして本となる。口頭発表のためにはアブストラクトの投稿が前提となり、予稿集や論文集の作成が伴う。話し言葉を模した書き言葉がネットワークを流通し、書き言葉を模した話し言葉がメディアを行き交う。

    語学教育におけるメディアやコンピュータネットワークの利用についての議論も盛んだが、ネットワーク社会における情報伝達がどのようなものであり、そこにおいて言語的なコミュニケーションの果たすべき役割はどのようなものであり、そのなかで英語という日本人にとっての外国語がいかに機能するか、すなわちコミュニケーションの学問としての言語学的立場から英語の果たす機能を分析することがなければ、教室の目先の機械をどのように整えるかというまったくむなしい議論に終始するであろう。

  5. 参考文献

    辰己丈夫,筧捷彦,原田康也, 「 WWW を用いた情報発信教育について」, 早稲田大学情報科学研究教育センター情報科学研究教育センター紀要20号pp. 33-40, 1996.
    原田康也「『語学の情報教育』ネットワーク時代の英文作法をめざして」, 1994 年 6 月 27 日, 社団法人私立大学情報教育協会, 私情協ジャーナル Summer '94, Vol. 3, No. 1, (通巻 66 号), pp. 20-21, ISSN 0981-4376.
    原田康也, 「文法的機械 (番外編その1)外国語教育の現代化: 語学教育と情報教育の統合化をめざして: または: 計算機環境を利用した英文作法指導の試みに関する極めて私的な報告」, 早稲田大学法学会, 人文論集, 1995-2-14.
    原田康也, 「文法的機械 (番外編その2):計算機環境を利用した英文作法指導の試みに関する極めて私的な報告 Part 2 」 1996 年 発行予定, 早稲田大学語学教育研究所, 語研フォーラム,(印刷中)
    原田康也, 「早稲田大学の情報教育の現状と課題:---あるいは(5万人の学生に対する)情報(倫理)教育は可能か---」 明治大学情報科学センター, 情報科学センター年報.