デジタルネットワーク社会の文法と論理と修辞へ

早稲田大学法学部教授
メディアネットワークセンター教務主任
原田 康也

[注意事項]

デジタルネットワーク社会の文法と論理と修辞へ
  1. 大学の情報化?!

    現在国内の多くの大学において、21世紀に向けての「情報化」が緊急の課題とされているらしいが、教務・財務など事務の情報化ならともかく、研究・教育の「情報化」と言われても何のことかさっぱり分からない。歴史的な事情を無視して「情報化」という言葉をあえて常識的に理解しようとすると、<情報>でなかったものを<情報>にするというつもりになるのだろうが、いくらなんでも錬金術を考えているわけではなさそうである。「現代化」といえば、<現代>でなかったものを<現代>にするとか、<現代>に適合していないものを<現代>に適合させる、ということであろうが、大学に棲息する<研究者>ならびに<教育者>たちの取り扱ってきたものはそもそも<情報>ではなかったのであろうか?

  2. 大学の授業はつまらない!?

    大学の授業は退屈だということになっている。学生でなくなってずいぶん時間がたってしまったので、真偽のほどは知らないが、確かめたかったら「学会」なるものに参加して、大学教員の発表を聞いてみればよい。もっとも、学会発表はよほど長くても45分の招待講演がいいところだが、日々の授業はたいていもっと長い。まともな精神の持ち主なら90分もの時間を一人で退屈していることに耐えられないはずだが、つまらない授業への出席を強要しておきながら、私語対策に頭を悩ませる教師もいるようだ。 大学の授業がつまらないといわれるのは、今に始まったことではない。25年ほど昔、紛争が終わった頃の大学に入ったが、思っていた通り、いや、思っていたよりもさらにひどく退屈だった。アルバイトやサークル活動にうつつを抜かす学生生活というのも、授業が退屈ならば仕方がない。授業がつまらなかったのは、担当教師が退屈で、授業の中身が勉学のためにも役に立たず、ましてや実社会での生活と何の関連性もなかったからだ。 国立大学の教育学部学校教育学科なる学科に進学して最初に聞いた言葉は「学校の現実の問題について議論するのはジャーナリストの仕事です。君たちは学校教育について学問的に研究する態度を身につけなさい」というものだった。私立大学の法学部に専任教員として嘱任して始めに聞いたことばは、「電源が足りないから、研究室でパソコンとか使わないでください」というものだった。どちらも同じようにそれぞれの大学の研究・教育というものの性格を示しているのだろう。

  3. 僕の教室は戦場だった

    紛争が終わったばかりの国立大学には、授業では身につかないからと外国語学校を薦める外国語教師がいた。一見正直に見えるが、単なる責任逃れである。出欠を取らず、甘く成績をつける教師というのも、学生の主体性を信頼しているというのは単なる言い訳で、実は責任感がなかっただけである。

    授業中に辞書を引かせない外国語教師だとか、辞書の使い方を教えない外国語教師だとかも論外である。どのような辞書がどのような目的に役に立ち、どうやって使うのが有効かというのは、当時の大学生にとってもっとも重要な事柄だったはずである。こうした外国語教師が授業中にしゃべっていたのは、辞書に書いてあることから一歩も出ていなかった。

    考えてみると、当時の一般的風潮として、課題は出すが解決方法を教えない、自分で苦労して覚えた手法は隠して実際に役に立つことを教えない、資料の探しかたや探して手に入れた資料は抱え込んで人に見せないというのは語学教師だけの話ではなかった。学部・大学院を通じて、一般教育科目にしても専門科目にしても、具体的な技能について何かを教わった覚えがない。図書館の使い方、レポート・論文の書き方を教わった覚えなどない。卒業論文について指導してもらわなかったのは、こちらがアルバイトで忙しかったからだし、修士論文について詳細な指導を受けた覚えがないのもこちらが身勝手なスケジュールで論文を書いていたからだが、それにしても、基本的な技能を教える科目がカリキュラムに組まれていなかったというのも不思議な話だ。

    こうしたことはすべて25年前の個人的な経験であって、現在の大学でこんなことはないのだろうと思う。しかし、なぜいまさら情報化が課題となるのだろう。

  4. ネットワーク社会のリテラシー教育へ!

    法学部の外国語科目としての英語を担当する中で、本来の意味での英作文、つまり英語による文章作成法を、現在の大学生たちにどのように教えたらよいか、さまざまに試行錯誤を繰り返してきた。特に、パソコンやネットワークを利用した授業を早くから試みてきた。

    英作文とはEnglish Compositionつまり英文による文章作成という基礎的技能の学習をさすはずであるのに、なぜか「和文英訳」という非常に高度な特殊技能のことであるという誤解が広まっている。和文英訳というのは日本語で表現された内容を正確に把握し、それをできるだけそのまま、日本語の表現形態に即して英語で表現するという難しい作業を含む。それに引き換えると、英作文というのは、ある話題についての自分なりの考えを英語で表現するという作業であるので、和文英訳に比較すれば格段にやさしいはずである。

    レポートを書いたり、文章をまとめたりするという作業は、昔は密室で孤独に行うものと思われていた。しかし、実は作文というのは読み手と書き手との間の共同作業である。アカデミックな分野では、論文を発表する場合、投稿した原稿を査読委員が評価し、必要に応じて修正した原稿をさらに編集委員が評価して、最終的に採録かどうかの結論に至るというのが一般的である。また、こうしたいわば公式の原稿修正以前の段階でも、比較的身近な研究者仲間に草稿を配布してコメントを求め、それを参考にして修正を重ねるという手順を踏む場合も多い。アカデミックな分野以外でも、文章のテーマは多くの場合執筆者と編集者などの話し合いの過程の中で次第に明確化していくもので、原稿が印刷物になるまでには、編集や校正の段階で大幅な変更が加えられていくことがふつうである。読者を想定しない文章作成は基本的にナンセンスであり、複数の人間が分担して、あるいは共同で文章をまとめる場合も含め、文章をまとめるという行為は多くの人間の共同作業として成り立っていることを強く認識することが今日的であるといえよう。

    今年度の英作文の授業でも、グループに分かれて英文によってある一つの主張を行うことを目標に、文章の論理的展開方法の基本について考え、これを英語においてどのように表現するか、実践を通して練習していくとともに、英作文を上のような意味での共同行為としてとらえ、これを効率よく実現していく手段として、さまざまな電子的入力編集手段の利用方法を実習している。機械操作に関しては、キーボード初心者も多いことから、タッチタイプの練習も含めて一応の基礎から始めるが、ワープロソフトなどの扱い方を実習した上で、インターネット上で電子メールや WWW を利用して情報を収集したり発信したりする方法を学び、peer evaluation / peer revision などを取り込んでグループで論文をまとめるといった作業に取り組んでみる予定でいる。参考となる文献資料の電子的な求め方、あるいは資料に対する言及方法の基礎的な事項についても触れる機会があるので、多くの学生にとってはレポート作成のために必要な基礎的方法論を考え直す機会ともなると期待している。

  5. realityとauthenticity

    ワープロで文章を書くのは、計算機資源を浪費してどうでもいい内容をさまざまに飾り立て、森林資源を浪費してプリントアウトするためではない。文章をまとめるためには、メモから断片的な文を作り、その構成も含め何度も修正を加えていく作業が必要となる。文章作成を結果だけではなくその過程も含めて指導し評価しようとすると、ワープロの利用は必然的になる。仲間と相互にアイデアを交換し、あるいは文章表現を批評しあうことを考えれば、ネットワークの利用は必然となる。研究者としての大学教員は自分たちが論文を書き、あるいは研究計画の申請書を書くときにこのような方法を取っているはずである。その方法を学生たちに教えようとしない、あるいは学生たちがそうした経験をするための設備を整えようとしないのであれば、教員としての責任を十分に果たしていないことになるかもしれない。

    文書や文章というのは必要になるたびにゼロから作りはじめるのではなく、可能な限り再生利用することが、作業の手間を省くだけでなく、必要な事項の見落としを防ぐ上からも重要であるが、試験やレポートなどの成績評価に直結した場面でしか文章を書くことを学ばなかった学生や、そのなれの果ての社会人1年生は、こうした基本的な事柄が把握できていない。キーボードを使って文章を綴ること、使える資料はすべて利用しながら作業を進めることは、「実社会」において文章作成を行なう際の常識的な手段である。ワインバーグの言うように、学校というのはしばしば現実離れした状況での練習を学生に強制するものであり、それが「退屈さ」の最大の原因となっている。

  6. インターネットは黒船になるか?

    大学における情報教育は、一部の情報系の学科以外においてはユーザ教育である。コンピュータ・ネットワークはコミュニケーションのメディアであり、ネットワークの向こうには異文化の「人間」が存在する。だから、文科系における情報教育においては、語学教育との統合化が重要である。

    コンピュータの授業で電子メールの使い方を教える場合を考えてみよう。ソフトの操作の説明に続く練習の展開としては、まず自分宛にテストメールを送る、隣の学生にテストメールを送る、授業担当者宛にテストメールを送るといったところで終わりであろう。一方、語学教員がメールを使うことを教えるとなれば、そうした基本練習はあくまでも予備練習であり、海外で日本語を学習中の学生とメールによる英文文通を試みるというような作業を必ず取り入れたくなるはずである。どちらが学生にとって電子メールというものの意義を明らかに示すかは言うまでもない。

    英作文の練習のための英作文は不毛であり、コンピュータ操作の練習のためのコンピュータ操作は不毛である。語学教育と情報教育はその目的も方法も共通の部分が多い。いずれもコミュニケーションの方法を修得することが本質であり、大部分の学生にとっては本来の専門科目に関わる学習の手段であるに過ぎない。英語で議論を戦わせる相手もいないまま、英語の勉強をできるわけがない。ネットワークが、この状況を唐突に変えつつある。英語教育にインターネットを取り入れようという期待感は非常に大きく見えるかもしれない。

    しかし、インターネットを授業に取り込むということは、現実の世界を教室に引き入れることでもある。情報ネットワークの構築は組織内においてすら異文化接触をもたらす。「文化」というのは「当然のことと思って疑問を持たない常識の体系」である。したがって、異文化接触の結果は、多くの場合おそるべき異文化摩擦となる。

  7. マルチメディアで授業というけれど!

    ATMネットワーク網が使い物になるかどうかは、やってみないとわからない。LL教室にパソコンを導入して授業が効果的に成立するかどうかも、やってみないとわからない。はっきりしているのは、外国語の教育ははじめからマルチモーダルであり、少なくとも400年前からハイパーテキスト的であったということである。今世紀に入って、レコード・テープレコーダ・ビデオ・CD-ROM と媒体は変化しても、市販の語学教育教材は一貫して400年前に回帰しようとしてきたのである。

    法文系の学部学生が1年間に学校に納入する金額を、彼らが1年間に受講する授業の総コマ数で割ってみると、おおざっぱに言って1コマあたり1000円から3000円程度という数字が出てくる。これはもちろん授業の取り方によって変わってくるが、外国語学校の授業料がおよそ1時間2000円前後という数字と比較してみるのも、思考実験としては面白い。あるいは、映画を1本ロードショーで見て1500円前後という数字と比較してみるのもよいかも知れない。

    映画の場合、90分間の暗闇での体験のためには、どれだけ予算を切りつめたところで、数ヶ月の時間と数十人のスタッフと数千万円の予算を必要とするようだ。巨大な予算と膨大なスタッフと最新の技術を駆使した作品も少なくない。CD-ROMパッケージの制作においてもこの事情は変わらない。比較して、90分の授業の準備のため、一般の大学教員が割けるのは、どれだけの時間と資金と労力だろうか。一方ではエアコンの聞いた部屋でふかふかの椅子に座ってしっかりした映像と音響設備によって十分な予算と時間をかけたエンターテインメントに埋没することができ、一方では果たして?という状況がある。

    単位や卒業証書や各種の資格や就職に際してのご利益などといった付随的なメリットがなくなったとき、大学はどうやって教育機関として生き残っていくのだろうか。情報化は大学を再生する切り札なのだろうか。しかし、教室にパソコンやワークステーションがならび、高精細の画像表示装置と高忠実度音響施設が整えられたとして、それをどのように日々の授業で使いこなしていくのだろう。そうした設備や装置や施設が十分日々の授業に有効活用される前提条件は整えられているのだろうか。

    昨今の学生がWindowsとキーボードの操作方法の習得に狂奔し、インターネットに夢中になるのも、来るべきマルチメディア社会への期待と不安という夢ではなく、就職難という現実に押しつぶされているだけである。

  8. 三科の時代(またはリテラシーの再生)

    trivial という英単語は「つまらない・退屈な」という意味である。これは初期の大学で教えられた三つの教科 trivium すなわち文法と論理と修辞が、「分かり切っていて退屈なものについてつまらない議論をする」ように感じられていたためらしい。しかし、デジタルネットワーク社会になって、文法と論理と修辞が新しい意味を持つようになった。

    文法というのはコミュニケーションの約束を取り決めたものである。人間と人間が「ことば」で意思疎通を図る場合には、英語や日本語などの自然言語の文法が問題となる。その形式化により計算機処理が可能になれば、機械翻訳や音声翻訳通信の品質が向上することが期待される。また、人間とコンピュータなどのエージェントが円滑に情報伝達を行うには、そのための文法が必要となる。コンピュータ・ネットワーク社会においては、言語コミュニケーションについても、新しい約束事が生まれているのかも知れない。例えば WWW のホームページを作ろうと思ったら、HTML の文法を多少は知らないと具合が悪いというような事態が生じている。

    論理というのは、議論のつじつまが整っているか、話の筋道が納得がいくものかどうか考える学問である。法学部の学生が、法律について学ぶということは、単に約束事としてとりまとめられた法規を覚えるということではなく、それを現実世界に適用したとき何をどう判断するか考えることが重要なのだろう。そのさいの推論が適切なものであるかどうかは、論理的な基準で考える必要もあるだろう。しかし、論理の今日的な意義は、コンピュータや CD や MD などのデジタル機器のすべてが、2値論理という文法に従って構成されているところにある。また、伝統的には論理的推論形式の研究は言葉や記号を前提に発達してきたが、図やイメージに基づく推論の形式化などはマルチメディアの時代にふさわしい話題かもしれない。

    修辞というのは、相手の同意を得るための表現技法を広く一般的に指す。陪審員制のもとでは、一般市民の代表をどのように説得するかが重要な問題となるが、話のつじつまが整っていても、議論の進め方が下手では理解が得られない。論理的なだけでは相手の感情を害することもありえる。伝統的には議論というものはことばを使って行うものであったが、現在では法廷の中ですらビデオの記録を見たり、コンピュータ・グラフィックスを利用して事件を再現しながら議論することが認められる場合もある。昔から「見ることは信じること」というので、記録ビデオや CG などを見せることが理性的な判断にとって有益なのか有害なのかは立場によって意見が分かれることがある。

    ネットワークによる異文化摩擦が日常化してゆくなかで、どのように上手なコミュニケーションを行っていくかが重要になっている。マルチメディア社会における基礎的なリテラシーを身につけていくことが、デジタルネットワーク社会の一般人となるべき現在の学生たちに期待されている。そのために必要な教育体系と教育方法と人材と設備を用意する責任が、現在の大学にはある。大学が情報化するというのは、教室へのパソコン設置台数や、ネットワークの利用状況について云々することではなく、こうした課題に正面から取り組むことを指すのであろう。

    教育学部という多少は現実世界との接点を持った学部から大学院に進むときに、実用とは程遠い英語学の道を選んだはずであるのに、文法理論の研究を通して自然言語処理に携わり当時流行の人工知能研究の一端にも触れ、形式意味論の研究を通じて論理学者や計算機科学の基礎を研究する数学者たちとの交流を始め、英作文の授業を通じてデジタルネットワークを利用したマルチメディア教育環境の構築に関わるようになってしまった。文科系の中でも特に典型的に人文的な言語学の研究を進めようとする中で、大学の研究室という象牙の塔にこもるはずだったのに、クラインの壷のように反転して、気がついてみると産・官・学のさまざまな研究組織の人々との共同研究の輪の中にいることになってしまった。これはただ偶然の個人的な事情であるだけではなく、歴史的な必然なのかもしれない。